天気雨

  L'Écume des jours

AROUND THE WORLD

手紙を赤いポストに投函したことで、私はまた苦悩することになる。

それを分かっていて、何故それを出さずにいられなかったのだろう。

春分の日からちょうど半年間、膨大な思想と活字が水槽の中を漂い音楽は水面下で乱反射した。

けれども私は知っている。

太陽は昇るために沈むことを。

”Walk slowly; drink lots of water”

「おやすみ。」と鼠は言った。 「おやすみ。」とジェイが言った。「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね。」  (村上春樹1973年のピンボール』)


3月21日に私が撮ったスナップ写真の中に、間違ったものがいくつか紛れ込んでいる。カシャカシャ。


ここのところ晴天が続いている。私には雨が足りないけれど、雨など鬱陶しいだけだと思う人々がいることもまた世界なのである。


陽の光と風が洗濯されたものものを気持ち良く乾かし消毒する。あなたはそれをとりこみ丁寧にたたむ。あるいはお日様の匂いを嗅ぎながら袖を通す。そして穏やかな日常に満足する。


私はあれからずっと考え事をしている。水出しのローズヒップの紅色と酸味を口に含みながら。

旅のしたく

旅のしたくをしていた。一人旅。自分が精神的にツーリストなのかトラヴェラーなのか考えようと思う。西へ行く。(まるで三蔵法師ではないか)

持参する本は、


胸の奥のほう奥のほうが苦しがっている。軋む音が耳鳴りのように聴こえる。

しかしどういうわけか柔和な心持ちでもある。沈んだ言葉にプツプツと気泡が立ちはじめている。

「いってまいります」と言い忘れたまま待合室を出てしまったことが心残りである。でもオルフェウスのように振り返ってはならないのだろうと思う。今は。

ものがたりのはじまり(あるいは、おわりのつづき)

この二年間、随分と本を読んだ気がする。その分、自分の言葉は森の奥の静かな泉に沈んでいた。時折それを掬おうと試みるのであるが、指の隙間からするするとこぼれ落ち、また水の中へと消えていった。

私にはインプットの時期とアウトプットの時期とがある。私はこの二年間ずっと何かを吸収し続けていたのかも知れない。瞳から、鼻腔から、鼓膜から、唇から、肌から。

今朝ラジオから流れてきた曲を、いつかあなたが聴くかも知れない。私が歩く理由は、おわりのつづきを語るためかも知れない。


さよなら夏の日

いったい何に別れを告げたのか正直分らないでいる。とにかく夏は終わったのだと思い、私は待合室から出たのだけれど、さてこれから何処へ往けばいいのか。


何処でもいいじゃないかと去年の私なら言うだろう。未来のことなんてこれっぽっちも分らないのだからと。でもそうではないのだ。たぶん。


今夜は中秋の名月。月明かりが導いてくれたらよいなと少しだけ他力本願で。そして手垢にまみれた空疎な活字を胸にしまいホントウの言葉を探す旅に出ようか。